教えのやさしい解説

大白法 695号
 
一念隨喜(いちねんずいき)
 「一念随喜」とは、法華経を修行する初信(しょしん)の行者の位(くらい)をいいます。一念は一瞬の短い時間を表し、随喜とは随順慶喜(けいき)の意で、信順して歓喜することです。
 一念随喜は、まず法華経迹門(しゃくもん)の『法師品第十』に説かれ、次に法華経本門の『分別(ふんべつ)功徳品第十七』に説かれています。

 『法師品』 に説かれる一念随喜
 一念随喜の語が最初に説かれたのは法華経『法師品第十』ですが、ここでは仏の在世と滅後に分けて、一念随喜の者の功徳の深重(じんじゅう)なることが明かされています。
 この『法師品』の、
 「妙法華経の、一偈(いちげ)一句を聞いて、乃至一念も随喜せん者には、我皆(われみな)記を与え授く。当に阿耨多羅(あのくたら)三藐三菩提(さんみゃくさんぼだい)を得べし」(法華経 三一八n)
の文について、天台大師は『法華文句(もんぐ)』に、
 「たとえ一句一偈という極めて少ない経文であっても、またそれを聞くのが一念という極めて短い時間であっても、それに随順し歓喜する功徳は遂(つい)に成仏の境界を得るのである。まして、五種(受持・読・誦・解説・書写)を具足(ぐそく)して信行に励む者の功徳は甚大である(趣意)」
と釈しています。

 『分別功徳品』の四信五品と一念随喜
 法華経本門(ほんもん)の『分別功徳品第十七』に説かれる「四信五品(ししんごほん)」とは、法華経本門『寿量品』の説法を聴聞した功徳につき、釈尊在世(ざいせ)の弟子には四信、滅後の弟子には五品の次第があることを示したものです。
 『法華文句』には、四信について、@一念信解(一念の信心を起こす)、A略解言趣(りゃくげごんしゅ)(教法の趣旨をほぼ了解する)、B広為他説(こういたせつ)(教法を信受し他人のために説く)、C深信観成(じんしんかんじょう) (深い信心に達し真理を観じて理解する)と説かれています。
 次の五品については、@随喜品(滅後に法華経本門の教説を聞いて随喜の心を起こす)、A読誦品(法華経を読誦する)、B説法品(自ら受持し他人のために説く)、C兼行六度品(法華経受持の傍らに六波羅蜜を行ずる)、D正行六度品(法華経本門の立場より六波羅蜜を主に行ずる)を説いています。
 このうち、釈尊在世の法華経修行の位である四信の第一「一念信解」と、滅後の五品の第一「随喜品」が一念随喜に当たります。これは法華経『分別功徳品第十七』の、
 「又復、如来の滅後に、若し是の経を聞いて、而も毀呰(きし)せずして随喜の心を起さん。当(まさ)に知るべし、已に深信解の相と為す」(法華経 四五六n)
を依文(えもん)とするもので、仏滅後に『寿量品』の教説を聞いて毀(そし)らず、随喜の心を起こす初信の位のことです。
 なお、同品には、
 「其れ衆生有って、仏の寿命の、長遠是(かく)の如くなるを聞いて、乃至能(よ)く一念の信解を生ぜば、所得の功徳限量有ること無けん」(同 四五〇n)
と、四信五品中、現在の四信の初信位である一念信解の功徳を説き明かしていますが、この一念信解は滅後の五品位における随喜品に相当するのであり、一念随喜と同意です。

 五十展転(ごじゅうてんでん)随喜の功徳
 さらに『随喜功徳品第十八』に至り、滅後五品中の随喜品の因の功徳として五十展転随喜の功徳が説かれています。
 法華経『随喜功徳品第十八』には、
 「第五十の人の展転して、法華経を聞いて随喜せん功徳、尚無量無辺阿僧祇(あそうぎ)なり。何(いか)に況んや、最初会中に於て、聞いて随喜せん者をや」(同 四六八n)
と、五十展転の衆生の随喜の功徳が説かれています。
 これは、仏の滅後に衆生が法華経本門『寿量品』の教説を聞いて歓喜し、他の人へと順々に伝え、第五十番目に伝え聞いて、ただ歓喜しただけの人の功徳でさえも無量無辺であり計り知れない。まして最初に『寿量品』を聞いて随喜し、他の人に伝えた人の功徳はさらに大きく計り知ることができないとして、初随喜(一念随喜)の功徳を説いたものです。

 一念隨喜は名字即位(みょうじそくい)
 日蓮大聖人は『唱法華題目抄』に、
 「義理を知らざる名字即の凡夫が随喜等の功徳も、経文の一偈一句一念随喜の者、五十展転等の内に入るかと覚え候」(御書 二二〇n)
と仰せられ、経文の内容を知らない私たち末法の名字即の凡夫が法華経を聞いて信心随喜の心を起こした功徳は、先の『法師品』に説かれた一念随喜の者と、『随喜功徳品』の五十展転の者等と同様の功徳であると説かれています。
 天台では、一念信解と初随喜とを六即位の相似即(そうじそく)あるいは観行即(かんぎょうそく)、乃至名字即に当たるとして一定していませんが、大聖人は名字即位とするのが経文の意に適(かな)うと仰せです。
 そして『四信五品抄』に、
 「檀戒(だんかい)等の五度を制止して一向に南無妙法蓮華経と称せしむるを、一念信解初随喜の気分と為すなり。是則ち此の経の本意なり」(同 一一三一n)
と、以信代慧(いしんだいえ)の信を正行とし、妙法を信受して唱題に励むことが初随喜であり、末法の法華経の本意であると御教示されています。

 結 び
 私たちは末法の正法である文底本因下種の妙法を聴聞し、各々が一念に随喜の心を起こしてこれを信受しているのですから、そこに即身成仏の大功徳が得られることを確信し、さらに精進していくことが肝要です。